1%の閃きと99%の努力
かつての算数教育では、演繹能力が重視されてきた。初めに前提ありきであり、台形の面積はとにかく「(上底+下底)×高さ÷2」で求まるのである。なぜそうなのかはどうでもよい。とにかくそういう「決まり」なのである。だから、多様な台形の面積を求める際にこの「決まり」を演繹的に活用しなさい、というわけだ。証明問題などの帰納能力が試されるのは中学に入ってからであった。これは、そもそも教育とは豊富な知識を有する「先生」が無知な「児童・生徒」に既知の知識を与えるものであるという理念に基づいていた。しかし、70年代から90年代にかけて、子どもの受験戦争や偏差値教育が社会問題化する中で、この天下り式の暗記型教育に疑問符が投げかけられ、現代の「考える力」育成への気運へとつながっていく。
米国の論理学者パース Peirce,C.S.は、論理的推論法として帰納法(induction)と演繹法(deduction)の他に、アブダクション(abduction)という推論法があることを指摘した。アブダクションは、仮説推論法、仮説演繹法などと邦訳され、ある個別的データを説明するために新たな仮説を導出し、他の個別的データにもその仮説を適用して推論を行うことと定義される。「A君もB君も私をかわいいと言ってくれた(ある個別的データの収集)」→「ということは、私はかわいい人間なのだ(新仮説)」→「ならば、私の大本命C君だって私をかわいいと思っているに違いない(他の個別的データへの適用)」このような推論のことである。「A君もB君もC君もD君もE君もF君も私をかわいいと言ってくれた(複数データの収集)」→「ということは、私はかわいい人間なのだろうか(新仮説)」→「ならば、私をかわいくないという人が出るまで確かめ続けよう(公理性の証明)」という推論を行う帰納法とは複数のデータから仮説を導出し証明を伴う点で異なる。また、「私は全てのクラスメートにかわいいと思われている(大前提的証明済み公理)」→「C君はクラスメートだ(小前提)」→「C君は私をかわいいと思っている(結論)」という推論を行う演繹法とは前提とする公理が既に証明されている点で異なる。
一般に、科学的な推論とは帰納や演繹を示し、アブダクションは非科学的な推論法とされる。しかし、人間の日常にはアブダクションが溢れている。「永田議員のメールがニセモノだったので、民主党の証拠はどうせニセモノに違いない」という人々の推論がこれからの民主党の肩に重くのしかかってくることは大いに予測される事態だ。
「考える力」育成とは、人間のアブダクションを丁寧に立証していくための帰納能力という科学的態度の育成と言い換えてもよい。アブダクションは創造的な閃きや美しいレトリックなどをもたらす反面、思い込みによる錯誤に陥る危険性をも含む。かつての暗記型教育では証明済み公理が初めから与えられているがゆえに、アブダクションが偽である可能性を慎重に検討する能力が育成されてこなかった。膨大な情報によって様々な価値が次々と相対化してゆく現代社会は、証明済み公理の公理性が揺らいでいく社会でもある。演繹法ばかりに慣れ親しんで、むやみにアブダクションを証明済み公理と過信する時代は終わった。アブダクションによる推論が演繹的推論であると錯誤してしまう人間の愚かな宿命を、永田議員は改めて私に教えてくれた。
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