ひきこもりは一日にして成らず
一昨年大ヒットとなった映画「世界の中心で、愛をさけぶ」の象徴であるエアーズロック。エアーズロックのあるオーストラリア中央部の赤砂の砂漠地帯をレッドセンターと呼ぶ。この砂漠地帯には多くの「蟻塚」と呼ばれる奇妙な物体が散在する。この物体は実は非常に複雑で美しい造形をした蟻の巣である。この地域の蟻たちは、砂を運んでは分泌液をお尻から出し砂と砂とを接着させるという行動習性を持つ。この分泌液には匂い成分であるフェロモンが含まれており、他の蟻を呼び寄せる機能を持つ。たまたま偶然に通りかかった他の蟻がそのフェロモンにつられて、そこに砂をくっつける。さらに、そのフェロモンにつられた蟻が砂をくっつける。これを繰り返すことで出来上がった建築物が「蟻塚」なのである。当然、蟻たちは「こんな蟻塚をつくろうか」などと経営者会議を交わしていたわけではない。誰の指図を受けたわけでもない。それぞれの蟻たちはただ砂と砂をくっつけるという単純な行動をとっているにすぎない。偶然が偶然を呼んだ結果、こうした作品が完成しただけなのである。
丸山孫朗という科学哲学者は、この蟻塚ができる仕組みをポジティブ・フィードバック(positive feedback)という概念で説明した。はじめに何らかの目標があり、その目標を達成すべく、様々な作用や行動を抑制するという方向で機能する働きをネガティブ・フィードバック(negative feedback)という。ネガティブ・フィードバックでは、入力条件としての目標に極めて大きな意味を持つ。「志望大学に合格するぞ」という目標のために、恋愛やスポーツや遊びを抑制する方向で機能するフィードバックは、まさにネガティブ・フィードバックの典型といえる。一方、出力条件である結果に大きな意味を持ち、それが次の作用や行動の入力条件として促進的に影響するという現象もある。一匹の蟻が分泌液で砂をくっつけたという結果が他の蟻の行動を促進的に決定し、それを繰り返すことで蟻塚は完成したのである。蟻たちに蟻塚という目標はない。結果が結果を生むだけである。この働きをポジティブ・フィードバックという。人口が都市に集中する現象などはまさにポジティブ・フィードバック作用による。「都市に人を集めよう」などという目標は誰も掲げていない。むしろ地方の過疎化を止めたいくらいだ。しかし集まってしまうのである。
セルヴィニ-パラツォーリ Selvini-Palazzoli,M.というイタリアの精神科医たちによって創められたシステミック家族療法(systemic family therapy)では、このフィードバックの考え方が心理療法に応用されている。例えば、子どもがひきこもり状態に陥ったとしよう。そのとき両親はどのような対応を取るか。「ひきこもり」という状態をいわば理想的な家族像という目標に対する逸脱行為とみなし、積極的に抑制しようと働きかけるのではないか。「友達と遊んできたら」「アルバイトにでも出たら意外と世の中は楽しいと思えるわよ」などと、ひきこもりを治そうと一生懸命に説得するに違いない。これはまさにネガティブ・フィードバックである。両親側に何らかの理想的な目標があって、それに向かって子どもを操作しようとしているわけである。「いい子に育てようと思って頑張ってきたのに、なぜひきこもりになってしまったの!」という嘆きこそ現状誤認である。人間の心はネガティブ・フィードバックのみで機能していないのだ。システミック家族療法では、ネガティブ・フィードバックからポジティブ・フィードバックへと現状認識を変化させることに重点を置く。ひきこもりはいわば蟻塚である。両親も、ひきこもっている本人も、ひきこもりを目指していたわけではない。結果が結果を生み、図らずもひきこもってしまっただけなのである。この観点に立たなければ見えてこない現象が実は多くあるのだ。
官から民へ。官僚組織のネガティブ・フィードバック作用によって管理的に萎縮してゆく社会ではなく、民間の多様な創造的行為が新たな創造的行為を生み、活力のあるポジティブ・フィードバック社会を創るという理念は立派だ。しかし、ポジティブ・フィードバックは蟻塚という美しい造形物も作れば、過疎過密化という問題をも生み出す。ローマも蟻塚もひきこもりも一日にして成らない。現代の日本社会の中には、ポジティブ・フィードバックの観点に立って、はるか昔の結果の積み重ねから丁寧に読み解かなければ見えてこない影や闇も多い。
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