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2006.02.20

心の予想屋という自戒(その弐)

 米国ペン農務次官によれば、「車でスーパーに買い物に行って事故に遭う確率の方が(BSE感染牛を食べる確率よりも)よほど高い」らしい。科学的根拠というものは政治的判断というバイアスによって歪められるのが常である。これでは、かつて政治が宗教を利用したのと何も変わらないではないか。
 
 日常生活で確率を云々する機会は多いが、「確率的」であることを証明するのは実はとても難しい。サイコロを転がして特定の目を出す行為は一般に確率的とされるが、これとて確率的でない要素が入り込む余地はある。サイコロの角がほんの一部磨り減っていたり、表面の凹凸が各面で一様でなかったり、ある面の中にだけ鉛が入っていたり。何万回、何十万回と振り続けても、特定の目が出やすかったり出にくかったりするならば、それは「確率的な振る舞い」をしないサイコロである。イカサマ博打でない限り、新しいサイコロに交換した方がよい。しかし、数回から数十回程度振ってみたところでそれがイカサマサイコロかどうかを判断することは難しい。そんなときはサイコロを噛み割って鉛の有無を確認した方がよほど話は早いが、時代劇のようにサイコロをうまく噛み割るのも我々素人には難しかろう。
 

 心理学研究ではサイコロを噛み割ることはできない。噛み割れない以上、鉛の有無を直接確かめることもできない。しかも、何万回、何十万回と人の心を転がしてみることも倫理面やコスト面でなかなか難しい。さらに心理学の関心は「人間とは」「日本人とは」など、しばしば個人ではなくより広範囲の人々に向けられることも多い。イカサマかどうかわからないサイコロが何十億個もあるようなものだ。それでも、数十個のサイコロを数回振ってイカサマかそうでないかを予測しなければならない。
 
 フィッシャー Fisher,R.A.という統計学者は、事象の確率的な振る舞いを保証する手続きとして、(1)反復(replication)、(2)無作為化(randomaization)、(3)局所管理(local control)という3つの原則を採り上げた。反復とは試行を何度も繰り返すことである。サイコロを何万回、何十万回と振り続けることと同じ理屈である。本来確率的なふるまいをする事象であるならば、試行数が増加するほど結果のバラツキが系統誤差(systematic error)でなく確率誤差(random error)であることの確証に近づくはずである。無作為化とは標本の抽出や試行への割り当てを恣意的・作為的でない手順で行うことである。ビンゴの番号が決まる手続きといってもよい。何十億個もある全てのサイコロを確かめるのは大変なのでそのうちの数十個をランダムに選ぶことである。局所管理とは試行に影響すると思われる要因を一定に調整することである。あるサイコロは畳の上で転がし、別のサイコロは毛足の長い絨毯の上で転がしたのでは、転がり方に差が出てしまうため、正確なイカサマ判断はできなくなる。あるサイコロを畳の上で転がしたなら全てのサイコロを畳の上で転がさなければ局所管理ができているとはいえない。心理学研究では、これら3つの手続きが明確に示されていれば、その事象の確率的な振る舞いを前提として確率理論を活用した検定や推定を行ってよいというルールがある。
 
 とりわけ「安全」に関しては危険性の確率が低ければそれでよいという性質の問題ではない。本来イカサマのサイコロなど賭博場に出回ってはならない。全てのサイコロをチェックしてイカサマ率ゼロを目指さなくてはならないのだ。米国とて日本人はテロ行為をする確率が低いので日本人に限って入国審査をなしにしようなどとはしまい。20ヶ月齢以下の牛の感染確率が低いからといって、確率的な振る舞いを系統的に抑制し得る全頭検査の撤廃を許容してよいのか。現在のところ技術的に事故発生の確率を系統的にゼロに抑制することができない交通事故を引き合いに出すペン次官はやや強引である。
 
 しかし、系統的なイカサマサイコロ検出を指向する全頭検査も盲信してはならない。確率的な振る舞いは、人間が局所管理で想定している要因の枠を越え、しばしば検査の信頼性を揺るがす力を持っている。

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