« ひきこもりは一日にして成らず | トップページ | 心の予想屋という自戒(その弐) »

2006.02.17

心の予想屋という自戒(その壱)

 私はかつて年齢の割りに老けて見えるとよく言われた。「落ち着きすぎて、初老のおっさんみたい」などと。しかし、最近は年齢より若く見られることの方が多くなった。「え~、そんなに年いってるの!?」などと。全く人間の年齢評価などいい加減なものである。
 
 年齢より若く見える、あるいは老けて見えるというとき、そこには年齢相応の見え方という基準が存在する。それを決定しているのは確率論的なものの考え方である。今年成人式を迎えた有名人といえば、上戸彩、山下智久、宮里藍、浜口順子などがいる。ある個人が頻繁に目にする、こうした有名人やその個人の周囲の20歳の身内や知人が、その個人にとっての20歳の標本(sample)となる。その個人が集めることができる標本の中で、最も出会う確率が高かった20歳イメージが代表となる。こうして、日本人の20歳は大体こんな感じという代表値(average)が完成するのである。人は、その代表値という基準に照らして、若く見えるか、老けて見えるかを判断している。しかし、外国人との交流で気づくことだが、この代表値は全く普遍性をもっていない。例えば、欧米諸国の20歳を日本の代表値と照らすと、ほとんどが老けて見えてしまう。日本の代表値は日本でしか通用しない。標本をとったのが日本なのだから、代表値が代表しているものも日本人という母集団(population)に限定されるのだ。
 

 心理学研究では確率理論にもとづく統計的な手法を多用する。「頻繁に暴力を振るう人は暴力的な映画やゲームを好むのではないか?」心理学によくある研究テーマだ。しかし、「頻繁に暴力を振るう人」とはどんな人か。この定義は意外と難しい。そこで、確率理論を利用する。ランダムに30人の人を集めてくる。その人たちの日常生活場面を全て観察し、「他者に暴力行為を行う回数」をカウントする。1回も暴力行為を行わない人、10回も行う人など様々だろうが、全体の暴力回数を平均してみると、平均値(mean)が1.3回だったとしよう。こうして、平均値以上、つまり2回以上暴力を振るった人を「頻繁に暴力を振るう人」と定義することができる。しかし、ここに大きな問題が立ちはだかる。ここで定義された「頻繁に暴力を振るう人」が代表する母集団は何だろうか。母集団は「人間」か、「日本人」か、「うちの学校の学生」か。
 
 麻雀、パチンコ、競馬にカジノ。いわゆるギャンブルでは原則的に予測が成り立たないようにできている。全ての予測が成り立つならば誰もが大勝ちで、ギャンブルの仕組みそのものが成り立たない。しかし、競馬場内では予想屋が手銭を稼いでいるくらいなので、全く予測が立たないわけでもない。要は確率の問題なのである。標準的な立方体のサイコロを振って「1」が出る確率は「1/6」である。中学校の数学で出てくる基本的な確率の問題だ。しかし、なぜそんなことがわかるのか。実際やってみても「1/6」にならないではないか。30回振れば、本来5回は「1」が出なくてはならないが、実際は2回くらいしか出なかったりする。「1/15」ではないか。もしヒマで物好きな人がいるならば、1000回、10000回、100000回とサイコロを振り続けてみてほしい。こうしてみると、限りなく「1」の出る確率が「1/6」に近づいていくことに気づくだろう。この現象を、大数の法則(law of large numbers)と呼ぶ。回数を増やせば増やすだけ、予測される値に近づいていくという法則だ。つまり、回数が多いほどその結果から求められた予測値の精度が増すのである。ただし、競馬の場合はサイコロのように偶発的な要因ばかりに左右されるわけでもないので、単純に経験の多い予想屋が的中率が高いとも限らないが。
 
 30人程度を集めて暴力行為の回数をカウントしたところで、そこで算出された平均値が「人間」や「日本人」を代表しているなどと錯覚してはならない。こうした錯覚に基づいた研究は熟練した競馬予想屋の足元にも及ばない。しかし、この程度の予測精度で学会誌に掲載される心理学研究は五万とある。実際問題として、1000人、10000人もの暴力行為を観察する金も時間も労力もないのだ。これを突き詰めると、それほどのコストをかけてまで必要な研究なのかという根本的な問題に還ってくる。理想と現実の折り合いはこんなところでもやはり難しい。
 
 世の中は、エセ科学で溢れている。一見、科学的な手続きにのっとって実験や研究が積み重ねられているように見えるものでも、実は大事な部分が見落とされていたり、隠蔽されていたりする。黄教授の例を引くまでもなく、ほんの少しデータを捏造してしまえば、あわやノーベル賞ものなのである。年齢評価のいい加減さも時と場合を選ばねばならない。

|

« ひきこもりは一日にして成らず | トップページ | 心の予想屋という自戒(その弐) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/41680/736530

この記事へのトラックバック一覧です: 心の予想屋という自戒(その壱):

« ひきこもりは一日にして成らず | トップページ | 心の予想屋という自戒(その弐) »