当たり前チョコはもうあげない
バレンタインデーの起源は三世紀のヨーロッパ、ローマ帝国時代にさかのぼるという。兵士達の恋愛や結婚が禁じられた時代に恋人達を保護したキリスト教司祭ヴァレンティヌスの反体制的な慈愛心を称えた日である。この起源を考えると、最近はめっきり義理チョコをもらう機会が減ったなどとため息を漏らす自分がひどくちっぽけな人間に映る。
1964年米国ニューヨークの繁華街。キティ・ジェノベーズという若い女性が何者かによって殺された。犯行現場には38人の目撃者がいた。しかしそのうちの誰もが彼女を助けようとしなかった。社会心理学領域で有名な「キティ・ジェノベーズ事件」である。
この事件をきっかけに高まった研究の一つに、向社会的行動(prosocial behavior)に関する研究がある。救助や援助、寄付、助言など、他者に貢献する多様な行動全般を示す概念だ。しかしその向社会的行動を起こす原因、すなわち動機を考えてみると、一様ではないことに気づく。アフリカの難民の映像を見て心から同情し募金ダイヤルを回すこともあれば、面倒な仕事の手伝いをしてもらうために同僚に食事をおごってやることもある。向社会的行動を起こす動機に着目すると、実は多様な要因が複雑に絡み合ってその行動を規定していることがわかる。
38人の傍観者達はなぜジェノベーズさんを助けなかったのか。その説明理論として提出されているものは膨大だが、その中に「自己報酬への批判的内省」というのがある。我々はしばしば人に優しくしてあげると、「自分にも優しいところがあるな」と自らの愛他性(altruism)を評価し、いわば自分を褒めてやる。この自分を褒めてやることを自己報酬(self reward)という。しかし、さらに踏み込んで考える人は、「ひょっとして、自分は自分を優しいと思いたいから人に優しくしているだけなんじゃないか」と、向社会的行動を偽善的態度として批判的に内省するだろう。38人の中には、批判的内省から偽善者ぶるのを敬遠した人もひょっとしたらいたのかもしれない。この批判的内省はとりわけ援助して当たり前といった場面に現れやすいことが知られている。
慈愛心などの愛他的動機からチョコレートを贈る義理チョコという習慣は、一般に本命チョコのいわば「おまけ」のような扱いを受ける。しかし、司祭ヴァレンティヌスの本命は慈愛に満ちた義理チョコにこそあるのかもしれない。そんな司祭の慈愛もむなしく、現代ではバレンタインデーなどいらないというOLが7割もいるという。義理チョコの慈愛も時代錯誤となりつつあるようだ。男性の「もらって当たり前」という態度や商業戦略的な「あげて当たり前」という風潮が、女性達の批判的内省を刺激しているのではなかろうか。
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