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2006.02.22

母性は本能に非ず

 「日本での生活になじめなかった」「仲間に入れてもらえない」滋賀県でまたも痛ましい事件が起こってしまった。中国国籍の容疑者が幼稚園児2人を通園途中に刺殺した事件だ。不幸が不幸を呼ぶこの哀しき鎖を断ち切る術はないのか。
 
 先日、私は息子の予防接種に行ってきた。病院の受付では必ず「母子手帳をお出しください」と言われる。固有名詞である「母子手帳」をそれ以外の名称で呼ぶことができないのはよくわかる。しかし、心の片隅でどこか釈然としない。「あなたの目の前にいるのは“母子”ではなく、“父子”である。」行政もそろそろ「親子手帳」という名に変えてくれないだろうか。
 

 我が国における母性研究の大家大日向雅美は、日本社会に巣食う「母性愛神話」が現代の人々の心の闇に大いに貢献していると指摘する。母性愛神話とは、母親が本能的に持っている、子どもの養育的愛情を賛美する神話であり、大日向は4つの構成要素を挙げる。第一に、心理学界で過去の遺産として風化したはずの「母性本能説」がある。特有の生殖力を有する女性は、先天的・生来的・本能的に母性的愛情や育児能力を有するというのが母性本能説である。この説を支持する体系的な心理学研究は、ほぼ皆無といってよい。母性は本能ではない。しかし、未だに世間では実しやかに信じられている説である。第二に、「三つ子の魂百まで」に象徴される「三歳児神話」がある。三歳までの子どもの発達はとても重要なので、少なくとも三歳までは母親は養育に専念すべきだという神話である。この神話についても全く科学的根拠はない。むしろ、就労をしている母親に養育された子どもの方がそうでない子どもに比べ、情緒発達や愛着発達、社会性発達において優れているという研究すらある。第三に、無償の愛や慈愛といった「聖母説」がある。母親は本来聖母マリアのように慈愛に満ち溢れていなければならないという神話である。実際の調査研究では育児の困惑や苦しさを報告する母親の方が圧倒的だという。育児というものは慈愛などとは程遠い世界といえる。第四に、母となった女性はそうでない女性よりも人間的に優れているという「母親の人間的成長説」がある。母親として子どもの養育に携わることは確かに人間的成長を促進させるものだが、同時に失ってゆくものも多い。母親たちは子どものいない女性が得たものの多くを母親であるがゆえに失くしている。母性への優越感が子どもを持たない女性への凶器となる危険性を大日向は指摘する。これら4つの母性愛神話が、深刻な育児ストレスや母子癒着、男の父親自覚のなさ、母でない女性への偏見や差別など、現代社会に暗い影を落とす問題の一因となっているという。こうした指摘から、現在の心理学界では、「子どもを養育する態度や心性」のことを「母性」ではなく、「養育性」や「育児性」と呼ばれることが一般的となった。
 
 私はかなりいい加減ではあるが、それなりに育児をしている。しかし、父親の育児に対する世間の目はまだまだ厳しい。父子だけで予防接種に行くとたいてい訝られるし、両親教室に両親そろって来ている家族は数件にすぎない。伝統的に日本社会を支えてきた母性愛信仰が実は神話であったことを易々と受け入れられるほど、この世の中は単純にはできていないということだろう。「男は仕事」という世間の強固なステレオタイプが、時として私の胸を砕く。そして同時に、「育児は女のものだけではない」という妙な反骨心が湧き起こるのである。
 
 言葉の通じない異国の地で、孤独に苛まれた彼女の憂いはどれほどのものだったか。「母親のくせによくも人の子を殺せるな!」という批判がどこかから聞こえてきそうである。母親も母親以前に人間である。社会から孤立した人間の哀しみや絶望は、母親の母性的慈しみよりも、はるかに本能的であろう。こうした哀しみや絶望をすくい上げる慈しみには母親も父親もない。殺人という許されざる行為を非難しつくした後には、この普遍的な慈しみに思いをいたす必要があろう。
 
■参考文献■
 大日向雅美 1988 母性の研究―その形成と変容の過程:伝統的母性観への反証 川島書店.
 大日向雅美 2000 母性愛神話の罠 日本評論社.

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コメント

はじめまして。mixiの足あとからたどり着きました。
「母子手帳」ならぬ「親子手帳」に一言。あの手帳を見ていただければわかると思うのですが、手帳の最初の部分は妊娠期間中のお母さんの体調管理について記されています。そして出生後の部分は子どもの成長について。。つまりあの手帳は育児の質や愛情を推し量るものではなく、単に妊娠・出産/出生・成長の記録でしかないのです。となると、やっぱりお父さんには申し訳ないのですが「母子手帳」が一番”適”かと。。でももちろん、お父さんの育児参加は120%応援です♪
で、あの事件。異国で子どもを抱えて生きていくのは、本当に大変かと思うのですが、「殺人」と「異国で生きることの大変」さは全く別です。異国で生きる人はいっぱいいます。でもほとんどの人は辛いからと言って異国で殺人は起こしません。
となにやら批判的?なコメントが続いてしまいましたが、もーぺす。さんのように真面目にいろんなことを考えて、その考えをちゃんとブログにされているのはすごいと思います。

投稿: く〜 | 2006.03.01 06:17

く~さん、コメントありがとうございます。

> やっぱりお父さんには申し訳ないのですが「母子手帳」が一
> 番”適”かと。。

そうですね。もちろん私も本気で「親子手帳」じゃないと!なんて考えてはいませんが、「母子」も「親子」なのでこれからはお父さんが携帯する手帳かもしれないから「親子」でもよいのじゃないかなー?というくらいの動機です。

もし「親子手帳」になったら、「父親への抱負」とか書く欄を作っても面白いなぁ・・・なんて。

> 育児の質や愛情を推し量るものではなく

はい。。。すみません。。。


> 「殺人」と「異国で生きることの大変」さは全く別です。

私の主張を丁寧にお読みいただければお分かりになると思いますが、「異国で生きることは大変だから殺人を犯してもよい」などということは少しも主張しておりません。少なくとも事実のみから推察すれば、「あの容疑者」にとっては、異国で生きることの大変さが少なからず殺人の要因として結びついていた可能性があるとしか言えません。もし「あの容疑者の殺人への動機」を他の外国人へと一般化する意図が私の文章から感じられたとしたら、私の文章の拙さゆえでしょう。申し訳ありません。
私が問題にしたかったのは、「外国人だから殺人」ではなく、「社会から孤立した人間だから殺人」というところなんです。外国人に限らず、全ての人間は社会から孤立すれば、殺人を犯すほどの絶望や哀しみに撃ち抜かれる可能性を秘めている。それだけ社会とのつながりというのはヒトという種の動物にとって必要不可欠なものといえます。だから、その絶望や哀しみをすくい上げることこそ重要で、それが殺人という哀しみの連鎖を断ち切る術になる。絶望や哀しみをすくい上げることに、母親だ父親だと言う人がいるならば、それは間違っている。とそういうことを言いたかったのです。

投稿: もーぺす。 | 2006.03.01 16:40

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